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羽生結弦さんの高校時代~いじめと東日本大震災を乗り越えて

羽生結弦選手って高校時代どんなだったんでしょうね。

ちょっと知りたくありませんか?

それが結構、壮絶な高校時代を送ってました。

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羽生結弦さんの高校時代の出来事をまとめてみる

夢を生きる (単行本) 単行本 – 2018/3/1
羽生 結弦 (著)

すでにスーパースターだった高校時代!クラス内ではかなり孤高の存在だったというのです。

羽生結弦選手は超有名人だったため嫉妬の中心だったのです。

羽生結弦さんの中学~高校時代の主な出来事

中学時代
2009年(14歳)ジュニアグランプリファイナル金メダル獲得
2010年(15歳)世界ジュニア選手権金メダル獲得
2010年 7月31日(15歳)楽天始球式に参加

高校時代(仙台 東北高校)
2011年(16歳)東日本大震災リンク被災、全国のアイスショー出演
2011年 グランプリファイナル(ロシア)優勝、四大陸選手権(ニース)銀メダル、史上最年少メダル
2012年(17歳)世界選手権(ニース)銅メダル、グランプリファイナル(ソチ)銀メダル
2013年 グランプリファイナル(福岡)金メダル、四大陸選手権(大阪)銀メダル

この出来事の中で最も注目すべきは

”東日本大震災”

という事になるでしょう。この出来事を抜いては羽生選手のここまでの飛躍は不可能だったのです。

では、その時の話から・・・

羽生結弦選手が高校1年で経験した東日本大震災

蒼い炎 単行本 – 2012/4/7
羽生 結弦 (著)

スケートを始めた4歳から17歳まで、写真とインタビューで綴る成長の軌跡。
貴重な撮りおろしショットを100点以上掲載!

東日本大震災が生じた2011年3月11日。

その日も羽生結弦選手はホームの「アイスリンク仙台」で練習していたのです。

しかし、突然の揺れ!!

幸いなことに地元のスケートクラブOBに助けられ羽生選手はケガもありませんでした。

その日から羽生結弦選手と家族は3日間の避難所生活を余儀なくされます。

一方アイスリンク仙台はと言えばベンチや貸し靴の棚は倒れ、壁にはヒビが・・・その後1か月して余震の影響で亀裂も大きくなりヒビの入った壁がリンクに落ちるという有様。

アイスリンクは全く使えない状態に。

これからどうなるのか・・・

「このまま、スケートを続けてもいいのか」

不安だけが残る体験だったことでしょう。


蒼い炎II-飛翔編- 単行本 – 2016/7/2
羽生 結弦 (著)

2004年から2016年までの貴重な写真を100点以上掲載。

前著のラスト、羽生選手が銅メダルを獲得した2012年世界選手権から、続編は始まります。

震災後、アイスリンクが再開するのは2011年7月になってからのこと。

練習が全くできなかった羽生結弦選手を受け入れたのは、当時横浜のスケートリンクにいた小学生時代のコーチ

もちろん練習はできましたが余震が起きると羽生結弦選手も怯える様子。

まだまだ震災の後遺症に悩まされていたのでしょう。

コーチもこう回顧してます。

「余震が起こると、結弦が非常に素早い動きでリンクから飛び出して、外に避難したんです。

精神も肉体も正常な状態ではなかった。

でも強い子ですから弱音などは一切、吐かなかった」

それほど強烈だったのですね。

いったいそんな状況から何が彼を立ち直らせたのでしょう。

それはその後行われた

全国各地を回ったアイスショーでした。

世界の選手たちと一緒になって60公演も果たしたらしい。

先のコーチはこう言ってます。

「そこで海外の選手と触れ合い技術を高めたこと、各地でファンの応援に力をもらえた。

過酷な経験を、結弦はプラスへ変えました。

震災を乗り越え、精神的にも肉体的にも成長し、新たな羽生結弦が誕生したように思います」

東日本大震災とアイスショーは羽生選手をより強くしたと言えるでしょう。

奇しくもフィギュアスケートの大敵だった震災は

羽生結弦を果てしなく強い男に育て上げたのです。

そしてアイスショーで共に滑った外国のフィギュアの選手たちとの交流

まさに

フィギュアの世界そのものが

彼を震災から助け出したといえるでしょう。

※アイスリンク仙台の工事のために羽生結弦選手は「蒼い炎」、「蒼い炎Ⅱ」の印税を全額寄付しているそうです。この本を読むと羽生選手がいかに過酷な状況で練習し、耐えてきたかがよく分かります。

 

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 羽生結弦選手の高校時代のいじめ

仙台高校入学時には既に”世界の羽生結弦”でした。

なにせ、世界ジュニア選手権では金メダルですし、入学の夏には楽天の始球式に出るといった具合ですから目立って仕方ありません。

スポーツ名門校ですからそれなりに有名な生徒はいるのですが、やはりレベルが違ったのです。

日本一の生徒がいても、羽生選手は世界一だったのですから・・・

高校時代の同級生は羽生結弦選手についてこう語ります。

「学校で笑顔を見たことはほとんどありません。友達も全然いなくて、授業のノートを見せ合ったりして仲がいいなという印象だったのは、野球部の男子1人と陸上部の女子1人ぐらいでした。

むしろ、友達をつくろうという気もなさそうな感じ。今でも連絡を取り合う高校の同級生は、その2人ぐらいじゃないですか」

そう、孤独だったのです。

中には羽生選手が登校すると(なかなか学校に顔を出せませんでしたが)

「しゃしゃるな」

「調子に乗るな」

と言ったヤジをわざと大きな声で言う生徒もいたようです。

酷いものですね。

ですが、羽生結弦選手自身は全く意に介していなかったらしい。

これらのいじめを乗り越える事ができたのは、やはり東日本大震災やアイスショーでの経験が彼を大きくしていたに違いありません。

羽生結弦選手の高校時代の終わり

羽生結弦選手が高校3年の夏休み。自ら状況を大きく変化させていきます。

実力をあげるために名コーチのブライアン・オーサー氏のところへと行き、練習の拠点をカナダに移すことになったのです。

持ち前の集中力で勉強は自分で結構できたので困らなかったとか。

しかし、カナダの様子を見たある記者はこう言ってます。

「カナダでの生活は、自宅とリンクを往復するだけ。母親はずっと一緒に暮らしていますが、カナダでスケーター以外の友人はいないのではないでしょうか。

羽生は必要以上の英語も勉強していなかったようなので、積極的にコミュニケーションをとって友人をつくろうとも思っていなかったのでしょう」

カナダでも友達はスケーター達だったようですね。

 

羽生結弦選手の高校時代まとめ

親しい友人に「学校は嫌いだった」と話したという羽生結弦選手。

それほど多くの友人を必要としない代わりに全世界の数百万とも知れないファンを手に入れたのだ。

だからこそ、羽生選手はファンに気を使い、大切にするのでしょう。

ファンには「嫌われたくない」と話しているし・・・

周りの同級生を気にして変に合わせることはしなかった羽生結弦選手。もう本当の自分の行くべき世界を知っていたのでしょう。

”学校”そのものは自分のいるべき世界じゃないってことを。そう彼の居場所は”リンク”だったのです。

それが分かっているからこそ、執着せずに自分の進むべき道を貫くことができたんですね。

いつだって”プーさん”は一緒だし・・・

管理人 トッケイ

 

 

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